ある小さな酒場へ行った時のことだ。
お祝いの特別営業で、人がごった返していた。椅子に座りきれない人は立って飲み、それでも溢れた人は外で飲む。
ワンオペレーションの店だから、店主は一人ですべての料理を作り、サービスまでこなさなければならない。
普段、この店では料理の作り置きをせず、注文が入ってから野菜を切り、ゆでたり焼いたりする。さすが今日は無理だろうと思いきや、彼はなんといつものままに作っていた。
たしかに作りたてはおいしいけれど、この状況でできるの本当に?
密かに見守っていると、目がぐるぐる回ってきた。
店のカウンターからテーブルから「すみませーん!」と矢のごとく飛んでくる注文。それらを聖徳太子のように聞き分け、公平に、かつ効率的にさばく采配と手際。
山積みになった皿やグラスは洗ってもすぐまた山積みになり、そこへちょいちょい、お客がグラスを割ったなどのハプニングも挟まれる。
私なら頭から湯気を出しそうなザ・カオス。
その時だ。
「日本酒ください」と所望した女性がいた。銘柄はなんでもいいという彼女に、店主は言ったのだ。
「冷酒? 冷や? 温める?」
椅子から落ちそうになった私の驚きが、伝わるだろうか。
三つの火口はすべて肉焼きや野菜蒸しなどでふさがっているというのに。
この期に及んで、店主はなんなら温めようとしているのだ。しかも躊躇なく。
嬉しそうに「お燗で♡」と答えた女性は、自分は大切にされている、と感じられただろう。
なぜかどうにかできてしまうこの店主は、料理のほかサービスの経験も積んだ人だった。
全体を俯瞰する力と段取る技術、人の心の機微に気づく感性を養ったサービスのプロには、職種が違っても学ぶことが多い。
私は一度にいくつもの仕事ができないタイプだが、あるフランス料理店に取材した際、ふとベテラン給仕に訊ねてみた。
「こっちで注文、あっちで会計、次のお客が早く来た!って時、頭の中はどうなっているのですか?」
ベテランは即答した。
「ダルマ落としのイメージですね。用事を優先順に縦に並べ、一個達成するごとに終了、終了とコマを叩き落としていく。いくら用事が積まれても、目の前にあるコマは常に一個です」
以来、私は仕事が団子になると「一個、一個」と呪文のように唱えている。
すると、すーっと気持ちが落ち着くのである。
またあるレストランのマダムは、「平常心を保つには、自分が慌てずに済む状態を準備しておくこと」と教えてくれた。
例えばお客がデザートを食べ始める頃には、コートを用意しておけば帰り際にバタバタしない。つまり少し先の未来を予測し、先手を打つ。
私の仕事で言えば、編集者が企画の方向で悩んでいるなら、タイトルや原稿を二パターン書くなどだろうか。
手間だが、完成してから「やっぱりこっちで」と告白された時の、足下から崩れ落ちそうな胸騒ぎを思えば私の心も平穏だ。
サービスのプロがビジネス書を出版してくれると、みんなの役に立つと思うんだけどな。
(秋田魁新報 2026.3.28掲載)
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