珈琲豆を挽く 2020.4.11

珈琲豆を挽く

 原稿を書いているとつい、寒い暑いにトイレなど、人間活動の基本まで我慢してしまう。お腹が空いて、そこにみかんがあったとしても〝皮をむく〟ことに気を散らしたくなくて、耐えるほうを選んでしまう。

 だいたい根が面倒くさがり屋なのだ。起きてから寝るまで、小さな机と椅子に座りっぱなしでも全然苦じゃない。家でエコノミークラス症候群になりそうだなぁ、なんて一応気にしつつ、10時間でフィンランドに着いたとか、12時間でもうイタリアだ、などと妄想して喜んでいる。ちなみにスマートフォンによると、昨日の歩数は17歩だった。

 前置きが長くなったが、こんな私でも珈琲だけは別人になる。飲みたくなったら一秒も待たずにすっくと立ち上がり、えんじ色のハンドル式ミルで豆をゴロゴロ手挽きして、ペーパーフィルターかネルドリップ(豆によって替える)で落とすのだ。

 このゴロゴロという音と手に伝わる感触が、金属なのにどこかやわらかでいい。豆が細かく砕かれて焙煎香が漂うと、気持ちもゆっくり落ち着いていく。

 そういえばある珈琲屋の店主は「お酒が感情に働く飲み物なら、珈琲は理性に働く」と話していた。たしかに珈琲を淹れることは、私にとって鎮めの儀式なのかもしれない。

 挽いた豆に向かって、S字にカーブしたケトルの注ぎ口から湯を細く垂らすと、やつらはごくごく飲むように吸ってぷくーっと膨らみ始める。しあわせだ。

 こんなことを書くといかにも丁寧な暮らしをしていそうだが、性格も淹れ方も、正真正銘の大雑把である。これまたあるレストランのマダムが言う「珈琲は、集中しすぎないで淹れたほうがなぜかおいしい」説を私も信じていて、がんばって淹れると、どうもぴーんと緊張した味になる気がして仕方ない。

 それよりも、鼻歌まじりに注いで、琥珀の湯気をすうっと深く吸い込む幸福感を満喫したい。もはや珈琲という液体を飲みたいのでなく、気体を細胞に摂り入れたいんじゃないかと思うくらい、この瞬間が命である。

 つい熱く語ってしまった。

 珈琲は私にとって、おふくろの味の一つなのだ。珈琲好きの母は豆をお店で挽いてもらい、やはりペーパーフィルターかネルドリップで淹れていた。共働きで平日は慌ただしいから、そうして淹れるのは日曜の朝だ。二階の子ども部屋から半目で階段を降りる途中にも、トーストの焼ける匂いと珈琲の香りが台所から流れてきて、いつもうれしくなってぱちっと目が覚めた。

 私と反対に何ごとも丁寧な母だが、大きなヤカンから注ぐお湯は「の」の字を描くなどという繊細なコントロールが利くはずもなく、そこは「たっしょ(たいしたことじゃない)」というスタンスだった気がする。でも、私はそのおおらかな味のおかげで珈琲好きになった。

 私が上京する年の母の誕生日、珈琲豆を自分で挽けるよう、えんじ色のミルをプレゼントした。母が病を患い施設に入ったとき、台所の棚にぽつんと残されていたのを見つけて、蓋を開けるとまだほのかに珈琲の香りがした。今、東京で毎日ゴロゴロしているのはその、母のミルである。

井川直子 | naoko ikawa

文筆業。