本当のおにぎり 2020.11.21

 子どもの頃、私のおにぎりはお習字の半紙にくるまれていた。

   遠足などでパティ&ジミーの包みを開くと、お弁当箱の上にぽこっと二つ、丸いものを四角く包んだ無骨なそれがのっている。

 ある日クラスメイトが覗き込んで、「何それ?」 と訊ねてきた。おにぎりだと答えるとびっくりして、中身の見える透明なフィルムにくるまれた三角形のおにぎりを見せて言う。

「これが、おにぎりだよ」

 ガーン、である。
   おにぎりとはラップやアルミホイルでくるまれるべきもの。それが文明。うちは遅れている、というかお母さんはきっと間違えている。大変、早く教えてあげなくちゃ。

 使命感に燃えた小学生女子は、台所で洗い物をする母に空の弁当箱を差し出すとき、まるでついでのようにさりげなく装いつつも得意げに伝えた。

「お母さん、知ってる? おにぎりって本当はラップで包むんだよ。あと、三角形なんだよ」

 言ってしまってから、なんだか悪いことをしたような気分になった。親切に教えてあげたつもりなのに、なぜか。

 しかし母はきれいに食べた弁当箱を満足そうに確認しながら、意外な告白をするのである。

「知ってるよ」

 でも私は半紙のほうが好きだから。そういう答えだった。

 曰く、ラップでは食べるときに海苔がびちゃっとする。アルミホイルはそもそも、あのブルッとくるようなカシャカシャした触感が苦手だから。

「半紙は海苔がおいしく食べられるの。直子は海苔好きでしょ」

 なるほど、と納得できるほど大人じゃなかった私は、大好物の海苔の名を聞いてもなお譲れない。遅れてるのは嫌だ。本当のおにぎりがいい。
   言い分はだんだん、何がなんでも調にエスカレートして、最後には「次からラップにして」とねじ伏せた。

 はたして、ラップおにぎりの日がやってきた。弁当箱の上に二つ、見えるぞ、限りなく丸みを帯びた三角形が。ぴったりと貼りついたラップをはがす作業さえ楽しい、やっときた私の文明開化――のはずだった。

 ひと口かじりつくと、海苔がぬるりと舌の上で溶け、唇にも指にもぬるりがついた。いつもなら開いた途端にふわっと立ち上がる、浮き浮きするような海苔の香りもない。こんなはずじゃなかった。がっかりと同時に、海苔と母に申し訳なくなった。

 その夜、おにぎりどうだった? と訊ねる母に、海苔がびちゃっとしていたと報告すると、母は私よりもがっかりした。

「冷ましてから包んだんだけどね、駄目だったかぁ。それはおいしくなかったでしょうね」

 ごめんなさい、という気持ちがなぜか「やっぱり半紙でいい」「三角じゃ海苔の分量が少ないから丸いのでいい」という言葉になって出るわがまま娘に、母はあきれながらこう告げた。

「おにぎりに『本当』も何もないの」

 たぶんそんなに深い意味もなく、なんだっていい、くらいのつもりで母は言ったのだろう。
   でも大人になった娘は、誰かがにぎってくれたおにぎりを食べる度にこう思う。

「にぎる人が食べる人を思って作る、その数だけ本当がある」。