尊敬したい! 2018.5.26

 雑誌の連載で、東京・渋谷区にオープンしたばかりのイタリア料理店を取材した。

    日本各地から、自分たちが心底尊敬する生産者の食材を取り寄せ、イタリア料理の技法を使って仕立てる。またレストランで使う食材やワインを販売しているから、買って帰ることもできる店。

 これまでも「レストランとセレクトショップの融合」や「全国のいい素材を集めました」といったフレーズなら溢れていたけれど、この新しい店が決定的に違うのは「尊敬」という目線だと思う。


 ナントカで優勝とか、有名人御用達、ランキング何位など、どこかの誰かが決めたお墨付きを借りてきて良しとするのではない。基準は自分が尊敬できるかどうか、その一点である。

 判断するためにはまず、自身がそれについて識らねば始まらない。勉強し、考える力をつけて、決定しなければならない。


 件の店主は1980年代生まれのサービスマンだが、「イタリア」だけでなく「日本」の産地や生産者に詳しい店でも修業し、「レストラン」に限らず食材とワインの「販売店」でも働いている。

   尊敬できる人を、自分で探し出す力を蓄えてきた。 


 最近私は、敬意についてよく考える。尊敬までいかないけれど、他者を敬う気持ち。ざっくり言えば、人を人と思うこと。

    今は、それが失われた社会である。肩がぶつかって舌打ちするのも、国際的な会議で相手国の話を聞かずに立ち去るのも、同じ質だ。身の周りから世界まで、さまざまな問題の奥底には敬意の喪失がちらついている。


 どうしてこんなことになったんだろう。世の中、尊敬できない大人だらけだから?

 昔『イタリアへ行ってコックになる』という本を書いたとき、大学で特別講義をした。ある学生が、「自分がアルバイトしていた飲食店では、シェフにも誰にも美味しいものを作ろうという発想は無かった。世の中に、本当にそれを目指している料理人がいるのかと驚いた」と言って、私の方が驚いた。

 社会に出て初めて出会う大人は大事だな、とつくづく思う。だが、それでも他人のせいばかりではない気がするのだ。


 駅のホームでも、バスの中でも、みんな自分の手元しか見ていない。手のひらに収まる小さな窓から、ここではないどこかの人と交信して、周りのリアルを見ていない。一事が万事。

 つまり、自分以外が何をしているのかを見ようとしなければ、見えるはずが無い。理解も想像もできない、ということ。

 尊敬できない世の中で、でもだからこそ、みんな本当はそれを求めているような気もする。尊敬できる人がいる、尊敬できることがあるっていいな、と。


 先のイタリア料理店に話を戻すと、食材・お酒の物販コーナーには秋田のしょっつるが並び、レストランでは秋田の日本酒が吞める。

   イタリア料理と日本酒の妙。聞けば秋田のお酒が気に入って、当地の酒屋から直接買っていると言う。しょっつるのような魚醤はイタリアで「ガルム」や「コラトゥーラ」と呼ばれるが、日伊の数ある魚醤の中からしょっつるを尊敬してくれたとは。

   お店の名は「クインディ」。代々木上原にあるので、機会があればぜひどうそ。