たぶん二十年以上ぶりに、〝秋田へ帰らなかった年越し〟となった。
夫の実家は東京だが、「うちは電車でいつでも来られるんだから、ご両親に顔を見せてあげて」という義母の優しさに甘えること毎年末。ひょっとして結婚後初めて東京の大晦日かも、と気がついて、我ながらびっくりしてしまった。
だが、もっと驚いたのは夫の落胆ぶりだ。彼はなぜ、一年の仕事を終えた後にも妻の実家仕事が待っている秋田を、そんなにも楽しみにしてくれたのか。
そこにダダミがあるからである。腹から割きたてのぷりぷりを、生で、湯引きで、天ぷらで、焼きで、鍋で食べられるダダミ天国。
右手で頬張り、左手で新酒をついーっと流し込む幸福絵図が、長年にわたり彼の脳裏に刷り込まれていた。
東京ではなんでも手に入るけれど、ほんのりピンクのつややかなダダミがあたりまえにスーパーに並んでいたりはしない。居酒屋に白子はあるけど、彼いわく「ダダミじゃない」。
たしかに。上等な白子を食べたいなら市場まで行けば買えるし、お取り寄せだってできる。けれど彼が望むダダミのおいしさは、そういうことじゃない。
居酒屋のメニューにぎっしり書かれた冬の日本海の味、そこに必ず見つかるダダミの文字。外は雪なのに屋内はストーブの暖かさに満ちている、その中でちゅるっと吸い込む、こっくりとした食感。スーパーで隣の買い物客に「これがいいっけよ」と突然のご指導をいただいて選び出し、おろしにんにくと醤油で晩酌の達成感。
求めているのは、きっとそういうものだ。
世の中がどんなに便利になっても、「その場」でなければ味わえないおいしさというものが絶対的にある。
とはいえ遠くへ行けない今は、我が家で初の年越しを楽しもうじゃないか、と年末の買い出しへ繰り出した。
ずっと作れなかったお正月料理を今年こそ。重箱に詰めるおせちではなく、一品ごとたくさん作る母の料理だ。
たらこと牛蒡としらたきと人参のほろほろとした炒り煮や、ホタテ貝柱がゴロンゴロン入った干し椎茸と蓮根の煮物、甘じょっぱいかすべの煮つけ、身欠きにしんのなますなど。
張り切ったものの、しかし生たらこが見つからない。百貨店まで来たのに……愕然とする私に、夫はあっさりと言った。
「生たらこなんて全国区じゃないよ」
まるで方言を、それは標準語じゃないと正されているみたいな気まずさだ。
案の定、かすべも身欠きにしんもない、大粒のホタテ貝柱は高級すぎて涙も出ない。もういいやお雑煮だけで、とのしもちを手に入れたはいいが、セリが売り切れ。
「東京ではなんでも手に入る」と思っていたけれど、案外そうでもないのかもしれない。
地方出身者がこうして故郷の味をあきらめ、標準語の料理に収まって、小さな「家の味」は遠くなっていくのだろう。
でも一方で、それが東京なのだとも思う。
食材は生まないが、集まる街。土着はないが、その代わりにクリエイティブで競い合う街。ああだから、レストランのおせちがあんなにも人気なんだろうな、と腑に落ちた。
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