デパートの大食堂 2020.8.1

「え、オムライスが二千円もするの! 洋食ってこんなに高かったっけ?」

ある編集者と洋食屋へ行ったとき、彼女は明らかにうろたえた。彼女が知っているのは、卓上のケチャップを自分でかける八百円のオムライス。それも正しい。でも、二千円のほうだって誠に由緒正しいのだ。


洋食は、西洋料理を起源としている。明治時代は皇族、華族、政治家、軍人らが外交として嗜(たしな)み、場所も外国航路の船や宮内省御用達の店などに限られた。
そこで修業した料理人が街場へ散らばることになるのだが、今度のお客は一般の日本人。なんでも「ごはん」に合う合わないが基準、という人々のために西洋料理はチューニングされ、日本独自の洋食が生まれた。


同時に、庶民へと広がる過程で枝分かれもした。
冒頭の洋食屋は西洋料理の流れを汲む店で、フォン(だし)からソースまで細部にわたり途方もない手順と時間と代々の技術を注ぎ込んでいる。二千円でも、むしろありがたいくらいの仕事なのだ。


洋食は日本のすみずみまで入り込んだ。
花街(かがい)の仕出し、食堂の定食、喫茶店ではナポリタンやピラフが育ち、酒場では洋酒と洋食がカッコよかった。


そんな話を、六月末に上梓した『東京の美しい洋食屋』(エクスナレッジ刊)に綴(つづ)っている。東京と横浜の洋食屋32軒の、小さな歴史を伝えるエッセイだが、じつは書きたくても書けなかったことが一つある。

デパートの大食堂だ。
戦後の経済成長期、家族でおでかけの花形といえばデパートであり、 最上階の大食堂はお楽しみのクライマックスだった。


秋田市で育った私にとって、それは木内(きのうち)百貨店である。昭和50年代。「木内デパートに行く」となればよそゆきの服を着て、ちょっといい靴を履き、みんなを待ちきれず玄関を飛び出して、母に追いかけられるまでが一連の儀式になっていた。


子どもにとっては夢の国だったのだ。エスカレーターに乗れる。おもちゃの森(売り場)がある。屋上には空を巡る観覧車が待っていて、初めて仮面ライダーに会ったのもここだった。

ちなみに一階には何十種類ものキャンディがクルクル回るマシンと、フレッシュジュース。この二つは母が好きで、行けば必ず立ち寄るルーティンだ。

そして大食堂である。
食品サンプルが並んだショーケースから、私が指すのは決まってホットケーキ。チキンライスに旗が立ったお子様ランチや、専用のスタンドにうやうやしく支えられたソフトクリームもいいけれど、堂々一位はホットケーキだ。


正確には、添えられるメイプルシロップが目当てだった。味でなく、小さなピッチャーに入ったシロップをたらりと垂らして食べる、というルールが特別なことのように思えたから。

ホットケーキは家でも焼いてくれたけれど、あのピッチャーでたらりはない。今思えば私は、外国の匂いのようなものにドキドキしていたのかもしれない。


日本中が西洋に憧れて、デパートに夢中になった時代の話。
なぜ本書に大食堂が書けなかったかというと、そのオリジナルを留めた百貨店が、東京にはもうなかったからである。