比べない 2021.4.24

 飲食関係の文章を書いていると、「おいしいお店を教えて」と聞かれることがとても多い。「おいしい」だけでは手がかりがざっくりし過ぎなので、食べたい料理と場所と人数、お誕生日祝いなどの目的を聞いて、知っている限りで教えてさしあげる。

 すると、なんと、おもむろにスマートフォンを出してグルメサイトを検索し始め、点数を確認する人がたまにいる。

「ふうん、3・5点ねぇ」

 何やら不満げである内心も透け透けに見えたりする。今、自分が訊ねた人の答えより不特定多数の評価を信じるのか、という敗北感はさておき、浮かび上がってくるのはこんな疑問だ。

「その点数に、どんな幸せがあるのだろう? みんながいいと言うお店に、あなたの望むものはないかもしれないのに」

 他人と比べたところに、幸せはない。私がそれを言語化できたのは大人になってからだけれど、そんなような感覚をぼんやりと持ち始めたのは、子どもの頃からだと思う。

 他人と比べる概念が育たなかったのは、一つに、母が比べなかったからだ。小さい頃から「難しい子」で叱られることなら多々あったものの、その時に級友や近所の子を引き合いに出して「お友達はいい子なのに」「みんなはこんなに勉強しているよ」などと言われた記憶がない。

 ただし、そのせいで世の受験生がどれだけ家で勉強しているか、なんて想像もできないまま受験期を迎えて愕然とするなど、「みんな」を知らなすぎる弊害というものもあったけれど。

 もう一つ、他人と自分を本能的に分けて考えるようになったのは、私が長らくアトピー性皮膚炎を患っていたことも大きく関係していると思う。

 小学校までは食べられるものがごく限られていて、みんなが大好きなスナック菓子もジュースも私だけ駄目。かゆくてつらいうえ、自分の手足が恥ずかしくて半袖の季節は憂鬱だった。

 でも、だからといって健康な肌の子を羨んだところでどうにもならない。サスペンスドラマではよく「私と同じ苦しみを〜!」 なんて叫んで事件が起こるけれど、もしも誰かがアトピーになったとしても自分のかゆみがなくなるわけじゃない。友だちがジュースを飲もうが飲むまいが、私が飲めないことには変わりない。つまり、誰がどうでも自分には関係ない。

 そういう感覚を、小さい頃から獲得できたことは幸運だ。

 誰かと比べない時間は、そのまま自分に集中できる時間になるのだから。「私は今、心から楽しい?」「私は、本当はどうしたいの?」と心に問える時間。

 そうして得た楽しさや選んだ道には、決して「みんなより楽しい」や「みんながこうしているから」といって選択したところにはない、自分にとって満点の幸せがある。

 誰もが羨む予約1年待ちのお店に行けるより、当日ふらっと行けるいつもの居酒屋が、この時期の疲れた心を救ってくれたりもする。グルメサイトで高得点でも1位でも、自分の満点には関係なし。自分は何が幸せか。それを得たいならば、「誰か」も「みんな」も不要です。

井川直子 | naoko ikawa

文筆業。